「記憶」の謎を分子レベルで解き明かす ~神経細胞で働く遺伝子の正体~
No.010

「記憶」の謎を分子レベルで解き明かす ~神経細胞で働く遺伝子の正体~

医歯学総合研究科 生化学・分子生物学奥野 浩行 教授

 

「私たちの頭の中はどうなっているのだろう」。
古代から人々を魅了してきた「記憶」の謎ですが、その仕組みは今もなお多くの謎に包まれています。

医歯学総合研究科で、記憶のメカニズムを追究している奥野 浩行教授にお話を伺いました。

 

先生はどうして「記憶」の研究を始めたのですか?

大学院の修士課程の頃は、がんの研究をしていたんです。
がん細胞は次々に分裂して増えていきますが、その増殖を指示する遺伝子が存在します。

普通に考えると、この遺伝子はどんどん分裂する細胞のみ働いていると思いますよね。
でも、もう分裂しない大脳の神経細胞でも働いていることを知って、興味がわきました。

「分裂しない細胞で、なぜ増殖に関わる遺伝子が働いているんだろう?」
「分裂しないなら、神経細胞同士のつながりである神経回路を変化させているのでは?」

――この疑問が、記憶と遺伝子の関係を研究するきっかけになりました。
この神経回路の変化こそが、記憶の正体なのではないかと考えているんです。

 

そもそも「記憶」とは、どのように生まれるのでしょうか?

脳の中に無数にある神経細胞は、シナプスというつなぎ目で電気信号や化学物質をやりとりして情報の伝達を行っています。
シナプスが無数に繋がりあうことで、神経回路が作られているんです。
脳を使う際、この神経回路の「伝わりやすさ」の調整が絶えず起きています。

「人との会話」に例えると分かりやすいかもしれません。
最初は大きな声で呼び掛けないと気づいてもらえなかった相手が、何度もやりとりを重ねるうちに、小さな声で話しかけるだけでもすぐに気づいて応えてくれるようになる。

こうした神経回路の調節により、スムーズに情報が伝わる状態になり、その状態が長く維持されること。
それこそが、記憶の本質だと考えられています。

「私たちの頭の中はどうなっているのだろう」「人はどうやって物事を覚えるのか」といった問いは、アリストテレスやプラトンの時代から人々の関心を集めてきました。
長く哲学や心理学など文系の領域で語られてきたテーマでしたが、そこに脳や神経細胞が関係していると分かってきたのは、20世紀に入ってから。まだ謎が多く、十分に解明されていないんです。

 

現在、具体的にはどのような研究をされているのですか?

私が注目しているのは、神経回路の「伝わりやすさ」の調整に関わっている遺伝子の1つ、「活動依存的遺伝子」です。

記憶には、数秒~数時間、数日~数か月、一生残るものまで、続く長さが異なります。
昨日の夕食は思い出せないのに、子どもの頃の思い出は鮮明に覚えているなんてこともよくありますよね。

これは、それぞれ脳の違う場所が担っているんです。時間とともに、記憶を担う神経回路が変化を繰り返しながら引き継がれていきます。

活動依存的遺伝子は、数百種類も存在しています。
例えば、その1つである「Arc(アーク)遺伝子」は、一旦蓄えた記憶を更に長持ちする形へと作り変えるのに重要な役割を担っていることが見えてきました。

脳のどの領域で、どのタイミングでArc遺伝子が働くと記憶の形成や維持につながるのか。
記憶に関わるマウスの大脳の神経細胞を赤や緑に染め分けて可視化し、一つ一つ、その役割や詳しい仕組みを調べています。

また、もう一つの手法として、行動から脳の働きへ迫るというアプローチも行っています。

マウスの大脳の神経細胞を染め分けたところ。
赤と緑は異なる記憶に関係する細胞です。

 

行動から、脳の働きが見えるのですか?

記憶は、判断や、状況に応じて考え方を切り替える柔軟性とも深く結びついています。

マウス用のタッチパネル式の学習装置を使って、記憶や意思決定に関わる行動を観察することで、脳の中で起きていることを推測する。
遺伝子レベルのアプローチと、行動レベルのアプローチ、両方の視点を組み合わせてみることで、初めて見えてくるものがあると思っています。

マウス用タッチパネル式学習装置

 

研究が進むことで、私たちの暮らしにはどんな変化がありそうですか?

老化によって記憶力が落ちるときには、「記憶するところ」が衰えているのかもしれないし、「思い出すところ」が衰えているのかもしれません。
頭の中に情報はあるけれど取り出せないのか、それとも覚えた情報自体が消失してしまったのか。
実は、その切り分けも現代科学ではまだ分かっていないんです。

脳の中で何が起きているのかという根本的な仕組みが分からないと、認知症の治療薬や予防法を作ろうにも作りようがありません。

記憶のメカニズムを解明することで何に役立つのかということは簡単には言えないのですけれど、将来的には、老化に伴う能力の低下や認知症などの進行を緩やかにすることにつながるのではないかと思っています。

 

記憶の仕組みがわかれば、応用の可能性も広がりそうですね。

実際に、製薬企業との共同研究も行っています。
ビジネスや医療への応用も視野には入れつつも、まずは「脳の中で何が起きているんだろう?」 という純粋な探究心を大切にしたいと思っています。

研究というのは、最初から狙い通りにうまくいくことばかりではありません。
予期せぬ偶然の発見から、新しい道筋が見えてくることの方が多いと感じています。
一歩一歩、謎の核心に迫っていくことで、 最終的に社会や医療への貢献にもつながっていけばうれしいです。